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友禅染 とは

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友禅染とは? (歴史解説)

西暦1682年。今からざっと330年ほど昔の天和二年。五代将軍綱吉の御世。

生類憐れみの令発布より遡ること五年。

江戸を中心に大規模な奢侈禁令の法度が出されました。
世に言うこの「天和の大禁令」を一つのきっかけとして、友禅染なるまったく新しい紋様形式が生み出される事となります。

繻子、緞子、又染めでは鹿の子絞りなどの贅沢な着物の着用が禁止されることにより、人々の関心が綺麗で華やかな模様染めに移ってゆくのは、自然な流れでした。
京都は知恩院前に住まいしたといわれる扇絵師、宮崎友禅斎によって創始、又は集大成されたとされる友禅染は、三百年後の今日に至るまで、絶えることなく脈々と我が国の着物染めの逸品として受け継がれて参りました。

我が国染織の歴史は、遠く縄文・弥生の時代まで遡ることが出来、
文様染めに関する資料としては、奈良・東大寺の正倉院御物に大変顕著です。

その中でも特に著名な「﨟纈(ろうけつ)・纐纈(しぼり)・夾纈(板じめ)」の三大染法を古くルーツに置きながら、世界にも比類のない発展を呈して参りました。
古代ペルシアから奈良へと続く、細く長い一本の絹の道。営々たる文化の営みの果てに、今日の友禅染がある訳です。
友禅染は代々あまたの染色技法中、一番最後に出現した言わば染めの集大成、究極の染法としての性格を体する技法です。

日本染織史・友禅染への流れ/

下記をご参照下さい。ただ今、より明解な染色史コーナー新設予定でおります。お待ち下さいませ。

日本染織史(クリックして下さい)

日本染織史 友禅染

我が国の染織史を旧ホームページに古代より項目別にまとめて参りましたが、私どもの手掛けます友禅染の項目が未完のままでした。ここに改めまして13番目の項目として「友禅染」を追加いたします。
ご覧頂けましたら幸いです。
尚「11 辻が花Ⅰ」の追加としまして「12 辻が花12」の項目も今後構成する予定です。お待ちください。

13)友禅染

前回「辻が花」までの続きとして、いよいよ友禅染という新しい染色技術の登場と発展になります。
友禅染が世の中に喧伝され出したのは、江戸時代の初頭、元禄初年頃と言われます。
1600年代の後半になると、関ヶ原以降の戦さなどからも時は移り、時代は落ち着きを取り戻して平穏を謳歌し始められるようになります。
人々にとり、やっと文化を開花させる事のできる環境が整ったこの時期、染織界にも華やかな賑わいが生まれ始めました。さまざま色鮮やかな染ものが、所せましと生まれ出てくるのですが、その中でひときわ、まさに大輪の花咲きほころぶような発展を開花させたものが、友禅染です。
そしてそれらいろいろな染ものが移り消えてゆく中、今日の御世まで脈々と受け継がれ現代を彩る、我が国を代表する染色技術に発展して参ります。

友禅染という言葉が初めて登場するのは、1687年・貞享4年のひな型本(デザインブック)「源氏ひながた」上巻巻頭文です。「扇のみか小袖にもはやる友禅~」とあり、大変もてはやされた事を思わせます。井原西鶴の好色一代男にも「扇も十二本ゆうぜんが浮世絵~」とあり、友禅扇というものが当時のはやりものであった事がうかがえます。つまり友禅とは先ず扇の代名詞であり、そのデザインは人々を喜ばすたいそう斬新なものだったのでしょう。
そういう新たなデザインが生み出されるには、それなりの要因が不可欠です。その一つに、江戸時代には頻繁に発令された奢侈禁令のお触れがあります。贅沢を戒め倹約を強制するのは、我が国のみならず当時世界の為政者の政策の一環であり、奢侈は犯罪との認識すらあったほどです。贅沢から風紀の乱れを生じ、犯罪の元凶に至るとの思いでしょうか。
禁令は正保、慶安、寛文年間などに幾度も出されましたが、その中でも天和2年(1682年)の禁止令は、金紗・刺繍・総絞りなど贅沢衣装は一切禁止など、大変厳しいものでした。それにより、呉服界は大きなダメージを受ける事になります。町人諸子においても自由の束縛は、大なる精神的苦痛であったでしょう。
そういうピンチに際して生まれるものが人々の知恵というものです。
つまり豪奢で絢爛豪華な織物や素材を使用せずとも、華やかな色どりをもたらしてくれるもの、即ち文様染の現れです。
それまでにも、太夫染・伊達染・茶屋染め・しもふり染・こんや染などなど、様々なアイデアで模様染が出回り始めていたことが分かっていますが、禁令に触れない色鮮やかな模様染が一気に花開くのは、時代の要請として当然の成り行きであったでしょう。友禅染もそういう時代背景の中で、必然的に生まれ、生み出されてきたものの一つです。

友禅染という名前は、一人の人物名から名付けられたもの、という説が今日最も有力となっています。
宮﨑友禅斎といい、京都の知恩院門前に住まいしていたという記述が元禄元年(1688年)発行の「都今様友禅ひいながた」という刊行物に見られます。
扇工友禅とありますから、扇絵師だったのでしょう。その売れっ子の絵師が、余勢をかりて呉服業界にも躍り出たことは様々な資料を見ずとも容易に想像がつきます。そこでまたまた大いに流行るという事となってゆく訳でしょう。
当時のデザイン本の記述によりますと、友禅模様のバリエーションは、扇・着物にとどまらず、帯・風呂敷・手拭い・畳紙・団扇・文箱・短冊・表具・火桶・盃などなどあらゆるものに及んでおり、総合的なマルチデザインの宝庫とも言えましょう。世間が友禅模様を大変な嗜好性で求めていた事を裏付けます。
その意匠は我が国の伝統の良さを踏まえながら、時代の潮流と雰囲気をふんだんに醸し出した、より新しい斬新性を有し、且つ粋で洒脱なカッコイイものだったのでしょう。それらが人々の心をつかむのは、この現代にも当てはまる当然の成り行きでしょうか。
つまり、友禅模様というものは、その成り立ちから先ず、色鮮やかで華麗且つ華やかなる装飾性を具有し、繊細且つ瀟洒で時代の先端をゆく斬新さを最大の特徴としている事が理解できます。
今日の衣装の中でも友禅染が特に、華やかな花鳥風月などを素材とし、色鮮やかな色彩性を持っている事が、頷けます。
又、友禅染の技法から考えますと(詳細はこのHPの技法欄参照)、優れた絵画性を発揮する事が可能な方法であり、それらの技法をより絵画性に近づけるべく、多くの絵師・職人たちの今日までの不断の努力の積み重ねがある訳で、「どんな柄でも、絵の様に自由に描ける事ができる」染法という特徴を持つ事で、他の技法に比して技術の壁や技法の限界による束縛にとらわれない、より更なる表現の自由を獲得できた事は、大きい成果でしょう。
この自由さが、友禅染の命と言って過言ではありません。

このようにして友禅染は、その後の江戸時代全般を通じ、更に時代の変遷を乗り越え、現代の今日まで生き続けて参りました。
時代時代のそれぞれの形による要請を引き受け、常に時代にマッチした斬新さで世の心を投影したデザインを提供してきました。

桃山時代における、絞り染めと繊細な墨描きの辻が花の流行から、江戸時代の初めにやがてそれがすたれ、縫い箔の小袖、それに続く慶長の小袖、寛文の小袖などに見られる、縫箔・鹿の子絞り・型染めなどの発展。又、浸染(つけ染)ではなく、刷毛による引き染(生地を張り、生地表を刷毛ですり込んで染める)の開発など、友禅に至る歴史の経緯を細かく紐解けば紐解くほど、膨大な技法的変遷がまだまだ存在します。
たった一つの技法にしても、調べればそこには時代と人々の大変な努力の集大成が垣間見られます。
友禅染の歴史も、京友禅から始まり、加賀友禅から将軍家在所の江戸友禅への発展なども興味ある展開として述べる必要性があると思いますし、辻が花から友禅染に至るまでの様々な染物・・茶屋染めや茶屋辻染など、一つ一つについてもある程度きちんと考察してゆく事は、その後の友禅染出現への大切な資料となるはずです。
つまり、いくら時代の要請で花開いたとは言え、いきなり新奇なデザインや全く新しい技法が夢の如くに現れるはずはなく、そこに到達するまでには、長い準備期間が醸成されなければならず、その意味で、友禅染以前の様々な染物技法が順次、考案発展を遂げてゆく過程でやがて集大成され、畢竟友禅染の出現につながってゆくという、そこまでの経緯が重要であることは論を俟ちません。
友禅を含む模様染が、禁令を一つの契機として発展したことは先に述べましたが、一説には、禁令と言っても、そこは蛇の道は蛇で、表向き禁止令には従いつつ裏では、商家の婚礼などでは、引き続き総鹿の子・縫い箔などが用いられること暫しで、禁令が完璧に守られた訳ではない事が、当時の読み物本などに伺えることから、当時の市井人の感覚自体が、より新鮮な新しい文化の到来を待ち望んでいて、禁令はその一つのきっかけとなり、新規の模様染がもてはやされる結果を生んだのだ、とも考えられます。
またいっちん染(使用糊原料が小麦粉)から友禅染(使用糊原料は餅粉)への移行による防染度の向上も技法上の要点ですし、更には、近代化による使用染料の変化も褪色・堅牢度の問題を考える上で重要でしょう。
簡単に述べれば、小麦粉に比し、より粘度の高い餅粉を使用する事で防染力(染み出しを防ぐ)の強化が実現できたこと。
染料に関しては、それまでは天然染料、いわゆる草木染であったので、染料に媒染剤を投入して顔料化した絵具(レーキ染料)などを使用していたらしいものから、新技術の化学染料(ドイツで発明)の開発による画期的な発展をした事などです。
それらすべての項目については、今後また改めまして折あるごとに追記させて頂く事といたしまして、とりあえずここでは、友禅染の発祥と簡単な変遷にとどめてみました。正直まだまだ未完で、物足りなきこと多々、の感を禁じ得ませんが、お許し下さい。
今後とも宜しくお願い致します。

〈参考写真〉

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衝立に貴文様小袖 部分図
江戸時代中期 東京国立博物館所蔵
友禅染の技法を遺憾なく発揮した傑作です。

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束ね熨斗文様振袖
江戸時代中期 友禅史会蔵
友禅技法に刺繍・摺り疋田・摺り箔を加味した大変手の込んだ大作。

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流水に杜若文様振袖
江戸時代後期 鐘紡株式会社蔵
鹿の子絞りの流水に、刺繍と友禅染の杜若を表し、
伊勢物語・九段の業平東下り、八つ橋を連想させる大胆な逸品です。

※参考資料
切畑 健編「染と織の文化史」日本放送出版協会刊
北村哲郎編「日本の美術3 友禅染」至文堂刊
山辺知之編「日本の美術11 染」至文堂刊
山辺知之監修・切畑 健編集「日本の染織6 小袖Ⅱ」中央公論社刊
今永清士構成「太陽/染と織シリーズ友禅・小紋」平凡社刊
児玉幸多編「日本史年表」吉川弘文館刊

付記
辻が花から友禅染への経緯—辻が花Ⅱ序章

正倉院に伝わる染の三纈(纐纈・夾纈・臈纈)のひとつである絞り染めがその
後も綿々と続き、中世室町期に辻が花として花開きました。
それは、絞りで模様を様々に染め分けし、また白抜きした中には、四季折々の花々を墨描きの細線で描写した、大胆かつ繊細可憐であり、誠に優雅なる雰囲気を醸し上げた世界を有する作品群です。

その室町期から応仁の乱を経て、戦国・織豊へと移りゆく時代の中で、世の中は、新時代の幕開けを予感させ始めます。

中世の日本的価値観から、新しく開けた南蛮との交易による、地球の向こう側から押し寄せてくる西側世界からの文化と情報を受けての、新規の価値観の醸成。時代は信長・秀吉などを筆頭とした、過去に束縛されない、新しい英雄、指導者たちの出現を望み始めます。
ビロード・ラシャなどの舶来品が大いに時代を席巻し、下着であった小袖がその機能性から、暑苦しい重ね着を凌駕し、堂々と表着へと昇格する価値観転換の時代。
染織の世界も多彩な展開の時代を迎えます。

辻が花は、室町後期頃に一時期、武士に敬遠されてゆきます。その要因の一つに、絞り染めが一般庶民に浸透し、庶民化し始めたため、格差を重んじる武家階級に、疎んじられたためと言われます。しかし、戦国時代になり、新時代を築く新進気鋭の武士団に、その典雅さと大胆な麗しさ故に、再び愛されるようになります。それは上杉謙信・豊臣秀吉・徳川家康所用として残る逸品や、武田信玄肖像画にも見られることで、明らかです。
しかし江戸時代の幕開けとともに、少しずつその姿を消してゆきます。

時代は、戦国から平安へと移り、太平の世とともに人々の思いも、明るく開放的なものを求める方向へと変化します。

その中で、染の世界も一気に開花します。お江戸染、正平染め、伊達染め、吉岡憲法染め、加賀染め、茶屋染め、いっちん染め、あかね染め、うこん染め、太夫染め、等々。そしてその中に、とうとう友禅染の名前も登場してくるのです。

時代の要請とともに、満開に開き始めた新しい衣装文化。その放流の中、茶屋染めなどを筆頭に、糊防染の技術開発が素晴らしく加速し、様々な需要、用途に柔軟機敏・臨機応変・千変万化の対応を見せ、そこからまた新規の染法技術が開発されると言う、まさに文化勃興から爛熟への道を邁進し始める、江戸時代250年間の黎明期と言えましょう。

辻が花は、その繊細さ、優雅さ、そしてなによりその絵画性の高さが特徴です。それはまさに桃山の名花として名を馳せ一時代を飾り、重厚な慶長小袖の縫い箔、またその次代の寛文小袖に座を譲りつつも、辻が花染めの持つ自由繊細な描き絵の精神、色彩の優雅さは、その後に登場する友禅染に十二分に引き継がれてゆく事となります。
時代が友禅染を生み出すその背景には、過去の様々な染めの歴史が息づいています。
そこには、それらに携わった多くの人々の生きた証が、深く籠められています。それらをすべて、記述し表現したい欲望に強く駆られますが、大変な労力を要するため、今はここまでに留めておきます事をお許し下さい。

2020 令和2年 5月記

技法解説

具体的な技法としましては、まず仮絵羽した白生地の着物に紫露草の汁から作った汁を和紙に染み込ませた「藍花」という液で下絵を細く線描します。

次にその線の通りに、糯粉から作った「糸目糊」という糊を置き引いてゆきます。
この糊が防染の土手になり、どんなに細かく描かれた模様の形にも染め分けることが出来る訳です。糸目とは、糸のように細いという意味です。

そして糊を生地に定着させるために、地入れと言って、布のり(浴衣に張りを入れるのりと同様)を生地全面に引き、乾燥させてから自由に色挿し(彩色)を施します。

次に挿し上がった色を定着させるために、大釜で蒸します。湯気と熱で、色素が生地深くに染み込んでゆきます。

蒸し終えたら、矢張り糯粉で作った「伏せ糊」という糊を着彩した模様の上全面に覆いかぶせます。

又地入れをして伏せ糊を定着させてから、今度は、地染め(模様以外の生地全部の染め)を行います(最近は水に溶けないゴム糊という糊ができたため、先に伏せて地染・水元をしてから模様染めをすることもあります)。

地染がすんだら、又蒸して地色を定着させます。

最後に生地に付着した糊と、布のりののりけや余分な色素などを洗い落とすために、水元(水洗い)をします。水元の後に、落ちた糸目糊の細い生地色の線が、染まらなかった部分として模様の周囲に残ります。その白い線こそが、友禅技法を特徴づけている糸目の線なのです。

そこまでで染めの工程は終了。
上がりに仕上げの金箔や上絵描きを施して、全制作工程は完了します。

お気軽にお問合せください TEL 048-482-0988 受付時間 9:00 - 18:00 [ 土・日・祝日除く ]

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